D PRO活動の歩み

1991年7月、東京で第11回世界ろう者会議が開かれました。

 

この時世界ろう者連盟(WFD)はすでに、ろう者は言語的少数者であるという観点から、「各国のろう者の手話の尊重と、社会的認知の促進」、「バイリンガル・アプローチの支持」、「ろう学校の必要性の強調」といった基本的な方針を打ち出していたのですが、開催国であった日本では、ろう者に独自の文化、言語があるという認識すらみられなかったのです。

 

1991年11月、D編集室がミニコミ紙『D』を創刊し、ろう文化と日本手話について日本のろう者社会に問題を提起しました。しかし『D』は「急進的だ」「過激過ぎる」との批判をかなり受けました。

1992年秋ごろ、アメリカ滞在の長かった槙敏彦氏の呼びかけにより、「日本手話の尊重」と「バイリンガル教育」に関心をもつろう者が集まり、情報交換会を定期的に開くようになりました。それをきっかけに1993年5月、熱海にてD PROが誕生しました。D PRO初代代表に槙氏が就任しました。

 


D PROは、当時ほとんどの手話講習会がシムコム(日本語と手話を同時に用いたコミュニケーション手段)で進められていたのを、ろう者の言語である日本手話で教えられるよう手話教授法ワークショップを開催したり、ろう者の手話を読み取ることのできない手話通訳者や手話学習者のためのリハビリコース(後に JSLクリニックと名称変更)を開催しました。


D PROの理念を多くの人に知ってもらうために、1994年7月31日新宿にある安田生命ホールでTHE DEAF DAY '94を開催しました。米国の手話学者レスリー・グリア氏が「ろう文化」をテーマに特別講演をしました。

このイベントは、シムコムではなくろう者の手話ですべてが進行されるという画期的な方法ですすめられました。また、手話から日本語への通訳もつきませんでした。参加者は400人でした。参加した多くのろう者が、「目からうろこが落ちる思いだった」「ろう者であることの本当の意味がわかった」「目が覚めた思いがした」と回想しています。


1995年1月、D PROの活動をさらに引き上げるべくD PROを組織化しました。代表が米内山明宏氏に代わりました。同時に、D PROの理念に賛同できる人なら誰でも会員になれるD PROメンバーズクラブ(DMC)が発足しました。

1995年秋、お茶の水女子大学で初めてオータムスクールを開催しました。米国の組織「CODA」の事務局長ミリー・ブラザー氏が講演しました。初めて国内のCODAたちが一堂に会し、そこからD PROとは別の組織である「J-CODA」が生まれ、現在も精力的に活動しています。(CODA=Children of Deaf Adultsの略、ろうの親のもとで育った聴者をいう)

それ以降オータムスクールは、毎年秋に国立オリンピック記念青少年センターで開催しています。1996年はエラ・マエ・レンズ氏(米国手話教師)、1997年はバリー氏(米国言語学者)、1998年はフランスから歴史学者ブー・ジョボ氏を招聘しました。


1996年2月10日~11日川口リリアで、2回目のTHE DEAF DAY '96を開催しました。特別記念講演に、米国のろう活動家、エムジェイ・ビアンヴニュ氏、ギャローデット大学でろう文化を講義しているベン・バーハン氏の豪華キャストを揃えました。ベン氏は、手話で語られる「手話文学」の楽しさを教えました。目をひいた企画に、ろう者の手による恋愛映画、歴史的事実にもとづいたろうの村長のドキュメンタリー、若手ろう者のグループDYCによるろう学校に関する演劇がありました。手話のわからない聴者のために、レシーバーで通訳サービスを提供しました。

1995年3月、『現代思想』3月号(青土社)に「ろう文化宣言」(木村晴美・市田泰弘)が掲載されました。これは各分野で大きな反響を呼びました。

言語学や文化人類学、社会学等に関心のある人たちは、日本手話が単なる日本語の代替手段でないこと、日本語とは全く異なる言語を話し、異なる文化を共有している人が、同じ日本にいることに大きなショックを受けたようです。しかし一方では、日本手話の話せない中途失聴者や難聴者を排他している、差別しているという批判もありました。「ろう文化宣言」に書かれているようなことは、ごく一部の人だけだという意見もありました。


さらに1996年4月には、『現代思想』臨時増刊(「ろう文化」総特集)が発刊されました。これは前述の「ろう文化宣言」に対する反響の大きさから、410ページにわたる特集として編集されたものです。聴覚活用に熱心な医師、教育者、中途失聴者、難聴者、ろうの子どもを持つ親、人類学者、言語学者など、さまざまな立場にある人が持論を展開しましたが、この特集もまた大きな反響を呼びました。


D PROの理念は、「排他主義」「デフ・ナショナリズム」に基づくものではありません。「ろう者至上主義」でもありません。多数者からの抑圧、つまり聴者の抑圧からの解放をめざして運動をしているだけにすぎないのです。


1996年4月、D PROは啓蒙活動を休止し、新たにろう者学研究センターを創設し、4つの研究チームをスタートさせました。それは、日本手話の構造はどうなっているのか、手話を教えるにはどうしたらいいのか、ろう者の(負でない、正の)歴史に何があるのか、手話の語り部になるためにはどんなトレーニングが必要なのか、日本手話のできる手話通訳者を養成するためには何が必要なのか、バイリンガル教育を実現させるにはどうしたらいいのか...、D PROとして勉強しなければいけないことがたくさんあったからです。


現在、「手話教授法」「手話学」「ろう文学」の3つが登録されています。その研究成果をDMC会員に発表する場として、毎月1回ろう者学セミナー(後に公開講座と改称)を開催しています。


シムコムでなく日本手話を教えるにはどうしたらよいかと悩むろう者が増えてきました。そうした背景のもと1997年4月、(株)ワールドパイオニア主催の手話教授法講座(1年)が開講され、今年度5月には3期目の講座が始まります。


ろう教育においても、生徒人数の減少に歯止めをかけなくてはいけない時期に来ています。ろう学校をとりまく情勢も厳しくなってきました。インテグレーションによる生徒人数の減少は、ろう文化の後世代への伝承をも危うくします。D PROは危機感を強めています。


1998年秋、ろう教育を考える会がスタートしました。D PROとしての活動でなく、ろう学校で使う基本的な言語として日本手話を法的に位置付けるよう、あらゆる方面で関係者に呼びかけ幅広く活動していくところに特色があります。この会は1999年4月、ろう児が日本手話と日本語の両方を身につけ、ろう者らしく生きることができるようフリースクール「龍の子学園」を開校しました。


ろう者や手話に対する偏見や誤解はまだ根強く残っています。テレビや映画などでろう者を描いたものが取り上げられるようになりましたが、ブラウン管に映るろう者像は私たちろう者とは全く異なっています。ろう者をとりまく社会情勢は、まだまだ誤解と偏見、同情に充ちています。それは、一般社会のみならず、ろう学校やろう関係の専門家、手話通訳者にも同じことがいえます。1998年度からD PROは、長らく休止していた啓蒙活動、対外活動を再開しました。人材の層が少しずつ厚くなってきていることも対外活動を始める余裕のひとつになっています。


D PROは、「ろう者がろう者としてろう者らしく生きることができる社会」を実現していくために、今後ともあらゆる努力を惜しまず、精力的に活動を続けていきます。

 

[1999年度版パンフレットより再掲]