赤堀さんからバトンを渡されてしまいました。
そういえば、赤堀さんとの初めての出会いは、会社の手話サークルでしたね。
第11回世界ろう者会議が行われたとき、私はちょうど社会人2年生。まだ20代前半でした。
木村さん、野呂さんもまだ20代前半で、世界ろう者会議の衝撃をもろに受け取った世代でもあったと思います。
「D」新聞が発行されたのもその頃であり、「ろう」を再認識し始めた頃に、会社の手話サークルで赤堀さんと出会ったのだと思います。
声を出しながら手話を教えるというのが当たり前という風潮の中で、音声言語に依存しない手話教育方法を模索していたとき、目の前に赤堀さんが現れました。
ぜひ、赤堀さんに手話教育などに関わってほしいと思っていたのですが、いろいろな過程を経て、手話教育に関わってくれるようになってくれてとてもうれしい限りです。
Dプロが立ち上がった頃、日本手話学会での研究発表をみてきたのですが、当時の手話学会は日本手話を研究対象とせず、日本語対応手話、中間手話といった日本語よりの手話研究が盛んだったと思います。
また、ろう者自身の手話研究発表がほとんどないということもあり、手話学会の将来が懸念されていました。
(市田さんたちが頑張ってアメリカ手話研究の紹介を論文にしていましたが、先行研究の日本手話での検証にすぎなかった)
日本手話学会の流れを変えたいという動機がDプロ手話学チームのスタートとなりました。
まずは先行研究の調査、日本手話への適用の検証、手話表記システムの学習からはじめ、アメリカから(故)バリー博士を招聘して、最先端のアメリカ手話研究に触れるなど手話研究についてある程度基盤を持ち上げられたと思います。
日本手話、日本語手話、中間手話といった論争がかなり激しかった中での研究でしたがとても充実していました。
これからも手話研究は進化していくだろうと思いますが、Dプロという存在が日本手話学会などに大きく影響したと考えても過言ではないでしょう。
私の大学院進学(1999ー2000)はアメリカの(故)バリー博士の影響によるところが大きいです。
すなわち、Dプロがあったから大学院に進学できたと思っています。
(ハードな仕事をしながら大学院で学ぶことはかなり大変なので)
同様にDプロはこれからも多くの若者へ刺激を与えていくことになると思います。
若者育成、啓蒙を含めこれからも頑張っていきます!
最後に、第2回ろう教育を考える全国討論集会(埼玉)で、ろう教育について「ろう児には手話による教育が必要である」と、レポート報告したとき、これに対して反発した男がいました。
「ろう児には日本語対応手話が必要であり、ろう者の手話では教育できない」と言っていた川島清さん。
その人にバトンを渡します。よろしく。 NEXT(次へ)
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