No.6 野呂 一(のろ・はじめ)

木村さんからバトンを受け取った野呂です。

 

関東聴懇の交流会で初めて会った木村さんは、「トンちゃん」というあだ名がぴったり合うほどふっくらしていました。手話が自由にできる学生がほとんどいない中で、木村さんは手慣れた手話でこんな質問をふっかけてきました。

 

「もしもですね。世の中がみんな手話で話していたら、ろう者は幸せになれるんですか?」

 

私は一瞬、答えに詰まってしまいました。こうした視点すら考えもしなかっただけに強烈な印象として残っています。しかも木村さんは1年生のわりに手話がスムーズだったので不思議に思い、聞いてみると「私はデフファミリーなんだけど」という。「ああ、そうか!」これまたビックリしてしまいました。今となっては懐かしいですね。

 

大学時代、手話といえば、ろうあ運動で聴者とともに活動できるために日本語対応手話が主流になっていて、ろう者は奥に追いやられていたように思います。 かくいう私も、バリバリの日本語対応手話で熱くろうあ運動論を語っていました。そのために、大阪の大家善一郎さんにたしなめられるほどでした。

 

後に述べる上野先生との共同研究の中で書いた論文から引用します。 筆者のひとり(野呂)は、大学時代に、第2代の聾唖連盟長であった大家善一郎氏と昼食をともにしたことがあったが、こう言われた。「あなたの手話はきたないですね。見苦しいです。でもあなたは聾者としての手話もできます。もう少し、聾者としての自信を持ってほしいと思います...」と。

 

あの頃は関東聴懇や手話学習会の影響で口話併用で手話をやっていたので、かなり頭をがんとやられた思いがある。「きれいな手話」とは、聾者が本来もつ日本手話を自然に表したものをいう。だから筆者の"日本語を併用した不自然な手話"をきたないと諭されたのである。(上野益雄、野呂一『藤本敏文の手話(1893-1976)についての考え方』つくば国際大学研究紀要、2001年) あの頃は私も、東京でろうあ運動に明け暮れる毎日でした。

 

付き合っていたカミさんのツテで全日本聾唖連盟でアルバイトする機会を得て、1年半ほど江戸川橋の事務所に通っていました。 当時は、なかなか実現しない手話通訳士制度を厚生省に認めてもらうために、「アイラブパンフ」という小冊子を200円で買ってもらい、最後のページに綴じ込んであるアンケートハガキを送ってもらう(これが署名代わりになるというなかなか手の込んだ運動手法でした)ろうあ運動を全国的に展開していました。 この事務処理を私が担当していたのです。また、日本聴力障害新聞縮刷版を調べながら、会員手帳の「戦後の全日ろう連の歩み(年表)」なるものも初めて作りました。

 

やがて大学を卒業することになり、私の後がまにお願いしたのが、木村さんでした。その後、弁護士として大活躍することになる田門さんも、バイトとして全日ろう連に入ってきたと思います。 そうした縁があって、世界ろう者会議が東京で開かれたときには、木村さんとともに私は大会パンフレット作成と速報班を任され、ずいぶんこぎ使われてしまいました。人使いが荒い全日ろう連のやりかたに辟易してしまったのですが、世界のろうあ運動の実態に触れて本当に目から鱗が落ちる思いがしました。

 

棚田さんのエッセイ(4月号)にもあったとおり、これが今のD PROのスタートになるんですね。アメリカでいろいろ経験を積んだ槇さんが旗振り役になって、ろう文化と日本手話について世に問う活動が始まりました。 やがてD PRO代表が米内山さんに代わりました。そして開口一番、「野呂はろう文化の研究をしたまえ!」。 そのころ私は、木村さんの一番弟子としてナチュラルアプローチを実践していました。しかも小薗江さんが修業の身で私に付いていました。今となっては信じられないことでしょうが...。(^_^;) こうして米内山教祖の思し召しを受けて、しぶしぶ始めた研究成果の第一号が「ろう者偉人伝・横尾義智」です。これがまさか日本のろう歴史学研究のはしりになるとは思いもしなかったのですが、D PROのろう者歴史学チームの結成、やがては日本聾史学会の発足につながっていくことになります。

 

そして、今はなき上野益雄先生(もと筑波大学教授)と出会い、一緒に研究したり、マンツーマンで論文を指導してもらったりして本格的な研究手法を学びました。上野先生は、私から手話を盗んだりしていました。 上野先生は、弟さんがろう者であったこと、手話はできなくても大丈夫だからと言われて立川聾学校に赴任したがすぐにろう児と手話は切っても切れない関係にあることを悟ってしまったことなどから40歳頃になって苦学して大学院に入られたのでした。 上野先生はいつも私に「ろう者の幸せを願う研究者になってほしい。そのためには修士だけでもいいから大学院に入ってみないか?」と。気がついたら私も大学院生になってしまい、その挙げ句には、ただでさえ忙しいという木村さんをも強引に説き伏せて一橋大学院の試験を受けさせてしまいました。小薗江さんが大学に進学したのも私の責任です。

 

D PROとの出会いが私の人生を大きく変えてしまったことは紛れもない事実ですが、ろう者の思想をダイレクトに伝えられる意味でもかなりインパクトのある10年であったと思います。それはやはり、若いとき真剣に取り組んだろうあ運動が貴重な経験になっていますね。今後は、メタボリックシンドロームの中年親父がいつボックリしても困らない(もうそうなっているか!?)ように、若手の育成に力を入れていきたいと思っています。

 

次回のバトンは海野さんにお願いしましょう。

 

数年前、川島さんが主宰する日本手話教育研究会で海野さんが、身近な手話(たしかCLがテーマだったと思います)を自分なりに考察して自信たっぷりに発表するそのスタンスにすごい衝撃を受けたことを今でも覚えています。ほんわかした風格を醸しながら、しっかりD PROの家計を管理している頼りがいのあるお姉ちゃまですよ。

 

海野さん、よろしくお願いしますね。

 

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